腐女子が嫌い

いわゆる隠れ腐女子でぬるヲタの私。
某大型掲示板でのやり取りでふと気付いた、「腐女子」が嫌いだと。
自分でもちょっと吃驚したのは、同族嫌悪が理由ではないからだ。
むしろ異物を排除する感覚に近い。
自分と全く思想や着眼点が異なる人間が、同じコンテンツを享受していて、同じ名称で呼ばれることに対して、まず本能的な苛立ちを覚えたのだ。
そして第二に、彼女たちの多くは、異物に対して無理解である以上に、自分自身や享受する対象に対して無理解であるということ。
この世の中では、少なくとも内省が無ければ、享受という行為は資本主義的な消費しか生まない。
喜びも悲しみも、売り買いできる対象になりつつあるからだ。
享受するものに対して、積極的に意味を見いだそうとしない限りは、それは商品の域を脱しない。
そして意味とはステータスではなく、絶対的な個別性だ。
意味は自分の中から生み出されるもので、自分でその源を探らない限りは、意味はすぐに消えてしまう。
彼女たちの多くは、それを全く理解していない、いや、全く気に止めていないように思う。
彼女たちは意味を感じている状態を継続しようとするだけだ。
それを指して、享受する対象に対するリスペクトとする。
私にはその姿勢は異物かどうか以前に、思考停止しているように見える。
勿論、それに当てはまる人間は腐女子以外にもいると思う。
だが、腐女子、ひいてはヲタの多くは、それに対して排他的かつ非常にわかりにくい信仰を持っている。
それが自衛と、時には積極的に他者攻撃の機能を果たしているように見えるので、尚更鬱陶しい。
私が挙げたことは、特に、二次同人に関わる層に顕著だと思う。
勿論、全てのその層の腐女子に当てはまることではないが、その界隈で思考停止そのものが内なる規範化していそうなムードも垣間見える。
何故か。その理由も朧気に見当がついている。想像が当たっていないほうが、精神衛生上はよい。
おそらく、コミュニティへのコミットメントと、縄張り争い、アイデンティティーの確保が重要なキーワードだ。
その場に持ち込むべき事柄かどうかを問い、ナンセンスだと外部から嘲笑するのは簡単だが、しかし、私はその真意をできるなら知りたい。
本当に大事なのはそれなのか、他人ではなく自分に対して、「愛」を胸を張って語れるか、問いたい。
おそらく、彼女たちにしたら、私の問いのほうを「ナンセンス」に感じるであろうが。